春らんまん1
パセージプラスを終えて
4月10日、「パセージ」のアドバンスドコースである「パセージプラス」、3日間6章のプログラムを無事終えることができた。少し時間をおいて、ようやく学んだことを言語化することができた。
一つ一つの事例を丁寧に扱ったために、時間はオーバー気味であった。次回の課題だなと思う。慣れた参加者が多かったので、事例が豊富だった。扱った事例に即して、テキストの内容の説明ができたので、私もやりやすかったし、みんなもわかりやすかったのではないかと思う。パセージプラス再受講であったり、毎月のエピソード分析練習会に参加している人がほとんどであったりしたおかげでもあった。
実際にコースを動かしてみて、「パセージ」と「パセージプラス」の違いを実感することができた。「パセージ」との大きな違いは、「親の側がしっかりと伝えたい願いを持つ」ということだ。マニュアルに書いてあることが思い起こされる。曰く『パセージは「願いすぎる親」を前提にしています。パセージを受けて、「願いすぎない親」を通り越して「願わない親」になってしまう場合があります。パセージプラスでは、上手に願う方法を学んでほしいと思っています。』
例えば、親の側に、「ある年令を過ぎたらお金の管理を自分でしてほしい」、「今手が離せないので買い物に行ってほしい」、「洗濯ものを出すときに洗濯しやすいように靴下を表にしておいてほしい」などという願いがある。パセージなら、まず相手の意向を聞くことからはじめる。パセージ慣れしている人は、つい最初から開いた質問をしたり、それをするのとしないのとの選択肢を与えたりしてしまいがちになる。いえいえ、「『パセージプラス』まできたのだから、まず親の願いを伝えてみましょうよ」と参加者を勇気づける。
特に「大切な話しをする」「(限界を設定し)選択肢を与える」のページで、この「親の願いを伝える」ということを強く意識することができた。まずストレートに伝えてみて、その反応を見て、お互いに意見をやりとりしながら妥協点を見つけていく。もちろん、一貫して冷静な対応できるだけの親子関係ができていることが前提になっている。親子関係が育っていなければ、関係を悪くしてしまう危険がある。だからこそ「パセージプラスの劇薬」と言われているのだ。逆に、このページを実践できたら、親子関係が、「パセージレベル」から「パセージプラスレベル」に成長しているという証になると言うことだ。「パセージ」の実践をていねいに積み重ねたうえに、「パセージプラス」が成り立っているのだということがよくわかったページであった。
「親の願い」と言うことを少し考えてみる。もちろん、その願いは親の「私的感覚」から生まれてくる。「願いすぎる親」というのは、自分の「私的感覚」に盲目的に従ってしまっている親だということができる。だからまずパセージプラスでは、徹底的に親の側の「私的感覚」を言語化しようとする。「言語化」してはじめて、その願いを相対化することができる。「パセージ」ならば、「子どもに願いをかけるのは親の課題だが、その願いを受け入れるかどうかは子どもの課題だ」と言うであろう。そのことが胸の内にしみていって、そうして、「願いすぎる親」でもなく、「願わない親」でもなく、「上手に願える親」になれるのだと思う。
結局、アドラー心理学は子育てや教育を通じて何をしようとしているのか?もちろんそれは、子ども達に「共同体感覚」を育成しようとしている。「願いすぎる親」はもちろん、「願わない親」では、「共同体感覚」を子どもに伝えることはできない。「パセージだけではアドラー心理学ではない」というのは、「パセージ」には「共同体感覚を伝えるすべ」が書かれていないからだ。もっとも、「パセージ」はその準備状況を作っているのだと言える。「パセージプラス」に至ってはじめて、「共同体感覚」が正面から取り上げられる。まず、親がエピソード分析を通じて、自分の「私的感覚」を言語化すること。言語化することで自分の願いを相対化することができる。親が自分の願いを相対化したとき、ようやくその願いが、「共同体感覚」に沿っているのかどうかを冷静に判断することができる。
「パセージプラス」が求めているのは、子どもに伝えようとする願いが、親の「私利私欲」だけからきているのかどうかをまず見極めること、その上で、「共同体感覚」に沿っているなら、「上手にその願いを子どもに伝えていく」ということなのだと思う。「ある年令を過ぎたらお金の管理を自分でしてほしい」、「今手が離せないので買い物に行ってほしい」、「洗濯ものを出すときに洗濯しやすいように靴下を表にしておいてほしい」と言う願いは、よくよく吟味してみると、単なる「私利私欲」ではなく、十分に「共同体感覚」に沿ったものだと言えるだろう。ならば、「パセージプラス」の技術を使って、それを「上手に子ども達に伝えていこう!」ということだ。
「パセージ」の実践を積み重ねた上に「パセージプラス」へ進む。「パセージプラス」に至ってはじめて、本格的な「アドラー心理学に則った育児」が始まるといえる。このシステムは本当によく考えられ、よく練られたものだと実感した。今後ともこの地で、「パセージ」「パセージプラス」を広げる活動を地道に続けていきたいとあらためて願うことができた。

一つ一つの事例を丁寧に扱ったために、時間はオーバー気味であった。次回の課題だなと思う。慣れた参加者が多かったので、事例が豊富だった。扱った事例に即して、テキストの内容の説明ができたので、私もやりやすかったし、みんなもわかりやすかったのではないかと思う。パセージプラス再受講であったり、毎月のエピソード分析練習会に参加している人がほとんどであったりしたおかげでもあった。
実際にコースを動かしてみて、「パセージ」と「パセージプラス」の違いを実感することができた。「パセージ」との大きな違いは、「親の側がしっかりと伝えたい願いを持つ」ということだ。マニュアルに書いてあることが思い起こされる。曰く『パセージは「願いすぎる親」を前提にしています。パセージを受けて、「願いすぎない親」を通り越して「願わない親」になってしまう場合があります。パセージプラスでは、上手に願う方法を学んでほしいと思っています。』
例えば、親の側に、「ある年令を過ぎたらお金の管理を自分でしてほしい」、「今手が離せないので買い物に行ってほしい」、「洗濯ものを出すときに洗濯しやすいように靴下を表にしておいてほしい」などという願いがある。パセージなら、まず相手の意向を聞くことからはじめる。パセージ慣れしている人は、つい最初から開いた質問をしたり、それをするのとしないのとの選択肢を与えたりしてしまいがちになる。いえいえ、「『パセージプラス』まできたのだから、まず親の願いを伝えてみましょうよ」と参加者を勇気づける。
特に「大切な話しをする」「(限界を設定し)選択肢を与える」のページで、この「親の願いを伝える」ということを強く意識することができた。まずストレートに伝えてみて、その反応を見て、お互いに意見をやりとりしながら妥協点を見つけていく。もちろん、一貫して冷静な対応できるだけの親子関係ができていることが前提になっている。親子関係が育っていなければ、関係を悪くしてしまう危険がある。だからこそ「パセージプラスの劇薬」と言われているのだ。逆に、このページを実践できたら、親子関係が、「パセージレベル」から「パセージプラスレベル」に成長しているという証になると言うことだ。「パセージ」の実践をていねいに積み重ねたうえに、「パセージプラス」が成り立っているのだということがよくわかったページであった。
「親の願い」と言うことを少し考えてみる。もちろん、その願いは親の「私的感覚」から生まれてくる。「願いすぎる親」というのは、自分の「私的感覚」に盲目的に従ってしまっている親だということができる。だからまずパセージプラスでは、徹底的に親の側の「私的感覚」を言語化しようとする。「言語化」してはじめて、その願いを相対化することができる。「パセージ」ならば、「子どもに願いをかけるのは親の課題だが、その願いを受け入れるかどうかは子どもの課題だ」と言うであろう。そのことが胸の内にしみていって、そうして、「願いすぎる親」でもなく、「願わない親」でもなく、「上手に願える親」になれるのだと思う。
結局、アドラー心理学は子育てや教育を通じて何をしようとしているのか?もちろんそれは、子ども達に「共同体感覚」を育成しようとしている。「願いすぎる親」はもちろん、「願わない親」では、「共同体感覚」を子どもに伝えることはできない。「パセージだけではアドラー心理学ではない」というのは、「パセージ」には「共同体感覚を伝えるすべ」が書かれていないからだ。もっとも、「パセージ」はその準備状況を作っているのだと言える。「パセージプラス」に至ってはじめて、「共同体感覚」が正面から取り上げられる。まず、親がエピソード分析を通じて、自分の「私的感覚」を言語化すること。言語化することで自分の願いを相対化することができる。親が自分の願いを相対化したとき、ようやくその願いが、「共同体感覚」に沿っているのかどうかを冷静に判断することができる。
「パセージプラス」が求めているのは、子どもに伝えようとする願いが、親の「私利私欲」だけからきているのかどうかをまず見極めること、その上で、「共同体感覚」に沿っているなら、「上手にその願いを子どもに伝えていく」ということなのだと思う。「ある年令を過ぎたらお金の管理を自分でしてほしい」、「今手が離せないので買い物に行ってほしい」、「洗濯ものを出すときに洗濯しやすいように靴下を表にしておいてほしい」と言う願いは、よくよく吟味してみると、単なる「私利私欲」ではなく、十分に「共同体感覚」に沿ったものだと言えるだろう。ならば、「パセージプラス」の技術を使って、それを「上手に子ども達に伝えていこう!」ということだ。
「パセージ」の実践を積み重ねた上に「パセージプラス」へ進む。「パセージプラス」に至ってはじめて、本格的な「アドラー心理学に則った育児」が始まるといえる。このシステムは本当によく考えられ、よく練られたものだと実感した。今後ともこの地で、「パセージ」「パセージプラス」を広げる活動を地道に続けていきたいとあらためて願うことができた。
