アドラーを語る4
今日は、アドラートークの会、アドラーの理論を語るその4「社会統合論」について。
少し前まで「対人関係論」と言われていた。対人関係論とは、精神内界論の対語で、「人の心は脳の中にある」のではなくて、「人と人との間にある」と考える。フロイトの学説と対比するとわかりやすい。フロイトは、人間の心はイド(本能的な欲動)と自我(理性)と超自我(道徳)に分かれていて、そのバランスが人を動かすと考えた。精神内界の中に人を動かす力があるというわけだ。アドラーは、人を動かす力は、人と人との関係の中にあると考えた。他者との関係の中である行動を選択するということだ。
対人関係論は、1対1の関係の中で議論されてきたのだが、社会統合論は、それをもう少し押し広げて、1対1の人間関係にとどまらず、「人間は社会の中に組み込まれた存在だ」と主張する。社会と言う大きな枠組み(文化といってもいい)の中で、人はある求められた行動をとるものだ。だから人の行動は社会的な文脈の中で理解することができると言う。
例えば、性格とは他者とのコミュニケーションの一つのパターンであると考える。頭の中に、やさしさとか怒りっぽいとかの「性格のもと」があるのではない。他者とのコミュニケーションの取り方が、やさしかったり、怒りを使いがちだったりするのだ。しかも、性格(コミュニケーションパターン)はいつも一定なのではなくて、相手ごとに違っている。
子どもたちが、学校で見せるふるまいと、家で見せるふるまいは違っている。私たちも、仕事場で見せる私と、家で見せる私と、友人の前での私は違っている。よく考えてみると当たり前。人は人の中で生きているのだから、相手が変われば、対応の仕方が変わる。
問題行動を起こす子どもに会ってみると、きちんとお話をしてくれるし、ごく普通の子に見える。しかしいざ学校の先生や親の前に出るとがらっと性格を変えたりする。どちらが本当なのか?どちらも本当だ。
学校で暴れるのは家でストレスを抱えているからだと言われることがある。対人関係論(社会統合論)では、そうではないと言う。学校では暴れる理由があり、家では大人しくしている理由がある。子どもはそれを主体的に選んでいる。問題は、学校に暴れざるを得ない環境があることであって、家庭のせいにするのはお門違い。学校の環境を調整することが必要なのだ。(あるいは反対に、家に暴れる理由があって、学校ではきちんとしている場合もある)
感情を対人関係論(社会統合論)で考えてみる。感情は、頭の中の変化が問題なのではなく、他者との関係で必要に応じて感情が生み出されると考える。例えば、子どもをがみがみ叱っているときに、突然友達から電話がかかってくる。電話に向かっては楽しく会話ができて、終わって子どもと向き合うとまた「か~っ」と怒りがわいて叱り始める。起きている現象を詳細に観察すると、人は状況に応じて感情を使い分けているということがわかる。
こんな風に対人関係論を使って考えると、人間の行動は理解しやすい。理解ができると対応の仕方もわかってくる。そこにとどまらずに、社会統合論は、「人間とは何か?」というところまで考えを押し広げる。
そもそも私とはなにか?私がひとりいるだけでは意味をなさない。子どもがいるから親でいられる、妻がいるから夫であり、患者さんがいるから医者でありうる。他者との関係で、私の意味が決まる。しかし、近代に入ってから、「自我の確立」ということで、自我が肥大化してしまった。そこが現代人の不幸の始まりと言える。
なぜ学校で勉強するのか?自分の幸せのためと言う。自分が資格を持って、お金を稼いで、ある地位を得るため。そうやって、「私が、私が・・・」と考えるから不幸になる。どこまで行っても私の欲求は満足できないから、あくなき幸福追求の渦にはまり込む。勉強するのは、本当は社会に貢献するためなのに。私は私一人では幸せになれない。他者を幸せにすることでしか幸せになれない。
他者によって私が不幸になるのではない、他者と私の関係が不幸なのだ。例えば、学校に行かない子どもがいて、親が「私は不幸だ(大変だ、苦しい)」と言う。学校に行かない子どもがいても私が不幸になることはない。単に子どもと私の関係が不幸なだけ。
どうしたらいいのか?学校に行かない子どもを否定していると、関係はいつまでも不幸なままだ。学校に行っているとか行っていないとかと関係なく、一緒に料理を作ったり、遊んだり、勉強(何か調べ物をする)したり、子どもといい関係ができていけば、親も子も幸せになれる。幸せになれると次の行動、例えば、どうしたら学校に行けるかを一緒に考えたり、学校に行かないで学び成長する方法を考えたりすることができるようになる。
社会統合論では、いつも社会に組み込まれた私を意識する。私の所属している社会(共同体)が健康でなければ、私も幸せになれない。私のできることは、私の私的な幸福追求ではなくて、共同体に対して私が貢献できることを考えて、行動することなのだ。
言うは易し、行うは難し。なかなか深い理屈だ。日々が修行だと言える。
少し前まで「対人関係論」と言われていた。対人関係論とは、精神内界論の対語で、「人の心は脳の中にある」のではなくて、「人と人との間にある」と考える。フロイトの学説と対比するとわかりやすい。フロイトは、人間の心はイド(本能的な欲動)と自我(理性)と超自我(道徳)に分かれていて、そのバランスが人を動かすと考えた。精神内界の中に人を動かす力があるというわけだ。アドラーは、人を動かす力は、人と人との関係の中にあると考えた。他者との関係の中である行動を選択するということだ。
対人関係論は、1対1の関係の中で議論されてきたのだが、社会統合論は、それをもう少し押し広げて、1対1の人間関係にとどまらず、「人間は社会の中に組み込まれた存在だ」と主張する。社会と言う大きな枠組み(文化といってもいい)の中で、人はある求められた行動をとるものだ。だから人の行動は社会的な文脈の中で理解することができると言う。
例えば、性格とは他者とのコミュニケーションの一つのパターンであると考える。頭の中に、やさしさとか怒りっぽいとかの「性格のもと」があるのではない。他者とのコミュニケーションの取り方が、やさしかったり、怒りを使いがちだったりするのだ。しかも、性格(コミュニケーションパターン)はいつも一定なのではなくて、相手ごとに違っている。
子どもたちが、学校で見せるふるまいと、家で見せるふるまいは違っている。私たちも、仕事場で見せる私と、家で見せる私と、友人の前での私は違っている。よく考えてみると当たり前。人は人の中で生きているのだから、相手が変われば、対応の仕方が変わる。
問題行動を起こす子どもに会ってみると、きちんとお話をしてくれるし、ごく普通の子に見える。しかしいざ学校の先生や親の前に出るとがらっと性格を変えたりする。どちらが本当なのか?どちらも本当だ。
学校で暴れるのは家でストレスを抱えているからだと言われることがある。対人関係論(社会統合論)では、そうではないと言う。学校では暴れる理由があり、家では大人しくしている理由がある。子どもはそれを主体的に選んでいる。問題は、学校に暴れざるを得ない環境があることであって、家庭のせいにするのはお門違い。学校の環境を調整することが必要なのだ。(あるいは反対に、家に暴れる理由があって、学校ではきちんとしている場合もある)
感情を対人関係論(社会統合論)で考えてみる。感情は、頭の中の変化が問題なのではなく、他者との関係で必要に応じて感情が生み出されると考える。例えば、子どもをがみがみ叱っているときに、突然友達から電話がかかってくる。電話に向かっては楽しく会話ができて、終わって子どもと向き合うとまた「か~っ」と怒りがわいて叱り始める。起きている現象を詳細に観察すると、人は状況に応じて感情を使い分けているということがわかる。
こんな風に対人関係論を使って考えると、人間の行動は理解しやすい。理解ができると対応の仕方もわかってくる。そこにとどまらずに、社会統合論は、「人間とは何か?」というところまで考えを押し広げる。
そもそも私とはなにか?私がひとりいるだけでは意味をなさない。子どもがいるから親でいられる、妻がいるから夫であり、患者さんがいるから医者でありうる。他者との関係で、私の意味が決まる。しかし、近代に入ってから、「自我の確立」ということで、自我が肥大化してしまった。そこが現代人の不幸の始まりと言える。
なぜ学校で勉強するのか?自分の幸せのためと言う。自分が資格を持って、お金を稼いで、ある地位を得るため。そうやって、「私が、私が・・・」と考えるから不幸になる。どこまで行っても私の欲求は満足できないから、あくなき幸福追求の渦にはまり込む。勉強するのは、本当は社会に貢献するためなのに。私は私一人では幸せになれない。他者を幸せにすることでしか幸せになれない。
他者によって私が不幸になるのではない、他者と私の関係が不幸なのだ。例えば、学校に行かない子どもがいて、親が「私は不幸だ(大変だ、苦しい)」と言う。学校に行かない子どもがいても私が不幸になることはない。単に子どもと私の関係が不幸なだけ。
どうしたらいいのか?学校に行かない子どもを否定していると、関係はいつまでも不幸なままだ。学校に行っているとか行っていないとかと関係なく、一緒に料理を作ったり、遊んだり、勉強(何か調べ物をする)したり、子どもといい関係ができていけば、親も子も幸せになれる。幸せになれると次の行動、例えば、どうしたら学校に行けるかを一緒に考えたり、学校に行かないで学び成長する方法を考えたりすることができるようになる。
社会統合論では、いつも社会に組み込まれた私を意識する。私の所属している社会(共同体)が健康でなければ、私も幸せになれない。私のできることは、私の私的な幸福追求ではなくて、共同体に対して私が貢献できることを考えて、行動することなのだ。
言うは易し、行うは難し。なかなか深い理屈だ。日々が修行だと言える。
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