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人とのつながりを持つ

昨日、かつて一緒に働いた人の紹介で、ある福祉施設の理事長夫妻と食事をした。

その福祉施設で新しくお年寄りのグループホームを作るのだが、そこに学童保育も入れたい、ついては小児科医の私とつながりを持ちたいとのことであった。

お年寄りの施設に学童の施設を併設するという発想が斬新だ。そして私たちの夢とつながる話でもある。子どもとお年寄りが積極的に交流するというのは、お互いにいろんな意味で刺激し合えて、とてもいいことだと思う。私たちも、当面は小児科クリニックからと思っているが、究極的にはいろんな年代の人、いろんな個性の人が一緒に暮らせる地域コミュニティーを作りたいということをずっと夢に見てきた。

いろんな話をした。以前から子どもとかかわる仕事をしたいと思っていたという。学童保育を作るというのがただの思い付きではないということだ。とても活動的で、仕事に情熱を持っていて、大変魅力的な方であった。こういう方と巡り合えるなんて、とても幸先がいい。お酒の勢いもあってすっかり意気投合した。

私たちは、ただ小児科のクリニックを開院したとは思っていない。それは、ライフワークとしての新しい社会づくりの第一歩だ。クリニックが軌道に乗ったら、まず病児保育(病児デイケア)を併設する。地域からの要求をくみ上げながら、保育を通して子育て文化を広げる拠点にしたい。私たちの活動に賛同してくれる人が増えたら、子育て支援センターを作りたい。また、子どもたちの心と体を豊かに育てる「プレイパーク」もほしい。そういう取り組みの中から、運動を支えてくれるいろんな人材が集まってくるだろう。

そして、究極的な夢として、子ども、青年、男、女、壮年、老人、障害を持つ人、学校に行かない子、仕事がない人、さまざまな年代、さまざまな事情を抱えたものが、集まるコミュニティー、ともに遊び、ともに働き、ともに話し合うことを通じて、協力協働の中で生きる「村」ができたらいいなというという壮大な夢を持っている。

そんな夢を語ったら、ぜひ実現していくべきだと強く励まされた。その方がやってきたことを聞いたら、本当に実現しそうな気がしてきた。夢を夢では終わらせないのだ。

とてもいい食事会であった

新型インフルエンザへの対応(長文)

いまだ新型インフルエンザに関して情報が混乱している。

友人と話していたら、病院によってインフルエンザへの対応が違うといわれた。

ある病院に行った人は、検査して陰性だったから、インフルエンザではないと言われた(1)。
別の病院に行った人は、検査して陰性だったけど、疑わしいからとインフルエンザのお薬が出された(2)。
どっちを信じていいのかわからないと言う。

学校や園では、毎日「インフルエンザ」と診断された子どもの人数を報告することになっている。医師の対応がまちまちだと、どっちに入れていいのか迷うのだそうだ。

医師は検査が絶対だと思わないで動いている。その辺で、医師とまわりの人の受け止めにギャップがあるのだろう。

少し、インフルエンザの知識を整理しておこう。

まず、検査のこと。
外来で行う迅速検査でわかるのは、鼻汁(鼻粘膜粘液)中のインフルエンザ抗原が陽性なのか陰性なのかということ。陽性なら、それがA型なのかB型なのかということ。新型なのか季節型なのかまではわからない。

新型インフルエンザは、検査ではA型と判定される。現在、ちまたで流行しているのは、季節性ではなくて、新型インフルエンザ。そこで、今A型陽性と判定されたら、新型と考えてよい。

検査は、熱が出てから12時間以上経っていないと陽性になりにくい。また、検査には、実際にはインフルエンザだが検査では陰性となる偽陰性というものがつきものだ。つまり、検査の陽性・陰性が直ちに、インフルエンザであるかどうかを表していない。

今までの季節性のインフルエンザでは、陽性率は9割以上であったが、今回の新型では、陽性率が高くない、ある調査によると25%が陰性という結果であった。つまり、本当はインフルエンザにかかっているのに、検査では4人に一人が陰性になるということだ。

検査は絶対ではない。では、どうやって診断するのか?
医師は、病状と周りの状況から、インフルエンザと判断する。かつて、外来での迅速検査が無かった時代には、誰もがそうやって診断していた。そして、学校や園では、検査なしの医師の診断で出席欠席を決めていた。

治療に関しても、少し混乱しているかもしれない。
インフルエンザは基本的には自然に治癒する。抗インフルエンザ薬を必ず使わなければならないわけではない。そもそも抗インフルエンザ薬は、インフルエンザを治す特効薬ではない。インフルエンザウイルスの増殖をさまたげる薬だ。

だから、初期に使うことによって、ウイルスの増殖をおさえ、病気を軽くしたり、長引かせないようにしたりするのを目的に使う。これまでは、軽ければ対症療法だけで様子を見ていた。かつて、抗インフルエンザ薬はなかったがそれでもちゃんと治っていた。

しかし、今回の新型インフルエンザは重症化することが恐れられている。今のところ、日本では重症化した例はそう多くない。それは、今まで積極的に抗インフルエンザ薬を使用しているからだといわれている。この辺りは少し疑問もあるが、今はインフルエンザと診断したら、基本的に抗インフルエンザ薬を使うことが推奨されている。

そこで、最初の疑問に戻って考える。

(1)の例では、検査がマイナスだけではなくて、周囲の状況や本人の様子から、インフルエンザの可能性は少ないと判断して、治療をしなかったのであろう。
(2)の例では、検査がマイナスでも、周囲の状況や本人の様子から、インフルエンザと診断して治療を開始したのであろう。
熱の出始めに来院された場合は、検査をせずに治療を開始することさえある。

それらのことを知った上で、患者さんや家族、周りの人はどう考えたらいいのか?

治療に関しては、医師の視点でミクロにものを考える。まずは、検査が絶対ではないことを知っておいてほしい。今の症状がインフルエンザウイルスによるものであるのかどうかを、人は100%知ることができない。だから、まわりの状況とその子の症状に合わせて治療を選べばよい。

医師は、いくつかの情報からある判断基準で治療方法を選ぶ。可能なら、その医師がどうしてその治療を推奨するのか(抗インフルエンザ薬を使うのか使わないのか)を聞いてみることだ。

学校や園の出欠や保健所への届け出は、マクロにものを見る。検査が100%ではないことを知った上で、医師がどう判断したかで出欠を決めればいい。問題は本当にインフルエンザなのかどうかではなくて、インフルエンザと診断されたかどうかということだ。

疑わしい場合を含めてインフルエンザと診断されたら、積極的に「インフルエンザである方」に数えて、対応するべきであろう。社会防衛の観点からそのように動いていることを広く世間にも知らせる。保護者の側も行政関係者がそのように動いていることを知っておくほうがいいと思う。

インフルエンザという言葉

その人がどんな世界に住んでいるのかによって、一つの言葉の意味が変わってくる。

医者にとって、「インフルエンザ」とは、起きている現象は「上気道の炎症(急性上気道炎=かぜ)」であって、その原因が「インフルエンザウイルス」によるもの。つまり、「かぜ」の一種だ。

同じインフルエンザウイルスによる感染でも、重症な場合と軽症な場合がある。軽症であれば、対応はかぜと同じで、そうあわてることではない。

でも、ある人たちにとっては、「インフルエンザ」は、特別に扱わなければならない「重症伝染病」だ。「インフルエンザ」であれば、保育所や学校は休ませなければならないし、「インフルエンザ」に罹っている人が一定数以上いれば、学級閉鎖や園閉鎖をしなければならない。

それは社会防衛のためだ。特に、行政関係者は、「新型インフルエンザ」に神経過敏になっている。「新型インフルエンザ」の抗体を持たない人が多いので、対応を誤ると、大流行する恐れがある。そのために社会機能がマヒしたら、責任を負いきれないと考えているのであろう。

学校や保育園で、「熱が出た」となると、「すぐ病院に行って、インフルエンザかどうかを調べてもらってください」と言われてくる方が結構いる。医者としては、検査は絶対じゃないのに・・・と思う。いまさらながら、医師の住む世界と、まわりの人の世界が違うということを日々実感している。

子どもと向き合う

昨日、檜山の上ノ国町「じょいじょぐら」で、「子どもと向き合う」というテーマで、講演をした。上の国町学校保健会主催の講演会であった。

子どもが不登校や非行などの「問題行動」をしたときに、親はあるいは教師は、「きちんと子どもと向き合うべきだ」といわれる。しかし、普通は、親としてあるいは教師として自信をなくしていて、そう簡単に子どもとどう向き合う気にはなれない。それは私自身が体験ずみだ。

そこで、アルフレッド・アドラーの思想と理論の話をする。まず、「人とはどんな存在か?」ということから考える。本来ヒトとは社会的な動物で、集団や社会に帰属しようとする本能的な欲求を持っている、そればかりではなくて、社会に向かおうとする潜在的な力をも持っている。

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物質的に豊かになった現代社会のおいて、子どもたちは、その潜在的な力を伸ばす機会を奪わている。かつては、子ども集団での遊びや、家の仕事を通じて、人とつながる力が自然に鍛えられていた。

いまあらためて、日々の生活の中で、そのことを意識しさえすればよいのだ。そのためには、まず、子どもの不適切な行動に注目をするのをやめ、少しでも適切と思ったことにしっかりと注目する。

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そのことにより、人は自分の持っている肯定的な面を建設的な方向に使うことができるようになるのだ。日々の暮らしの中では、親子で「ともに遊び、ともに働き、ともに話し合う」こと。その中で、子どもは「自分には能力がある」と思い、「人々は仲間だ」と思うようになって、適切に社会に開かれた存在に成熟していくことができる。

というような話をした。

学校保健会の会長さんは、私の話を大変気に入ってくれた。控室に帰ってから、「実にいい話だった」、「近頃、こういう話をしてくれる人はいない」と、さんざん持ち上げてくれた。

やっぱり、アドラー心理学の話はいい。人をひきつける力がある。聞いている人が勇気づけられて、「明日からきちんと子どもと向き合ってみよう」という気になるとすれば、願ってもないことだ。

話が具体的で、いま何をすればいいのかが見えるということもあるけど、問題点ばかりをみて、あれがダメだ、これがいけないというのではなくて、いつでも可能性のほうを見るからだろう。それがアドラー心理学の魅力だ。

こういうことをきっかけに、アドラー心理学に興味を持ってくれる人が、現れてくれるとうれしい。

違う世界の言葉

今月もまた請求事務が始まった。

専門家にレセプトを点検してもらったが、その時に気がついたことがある。レセプトの世界は、医師が住んでいる世界とは似ているけど、実は全く違う世界なのだということ。

医師は、毎日毎日患者さんを診察して、どんな病気なのかを判断し、病名をつけ、必要な薬を出し、時には必要な検査をする。しかし、その思考のプロセスとまったく違うところで、レセプトは動いている。考えてみれば当たりまえのことかもしれない。だけど、つい医師の世界の価値基準でものを考えてしまう。そうすると、「なんでそうなるの?」と疑問が浮かぶ。

たとえば、他院でインフルエンザと診断され薬をもらった。インフルエンザは治ったのだが、そのあとの咳が続くために、当院に受診した患者さんの場合。

医師は、これはインフルエンザ後の気管支炎だと診断して、その方向で薬を出す。だから、医師の書いたカルテには、「インフルエンザ」と「急性気管支炎」の診断名が書かれるであろう。しかし、インフルエンザにかかわる薬や検査がないので、この場合レセプトには、「インフルエンザ」の病名は不要ということになる。

あるいは、熱が出て12時間以内に来院された患者さんの場合。
医師は、検査しても陰性になるだろうと推測して、検査はしないが、まわりの状況と臨床症状から、インフルエンザと診断して、抗インフルエンザ薬を出す。その場合、カルテには「インフルエンザ」とだけ書かれるであろう。

しかし、抗インフルエンザ薬を出すと、インフルエンザにA型かB型かの別を記載するように勧められる。レセプト的には、AかBか大事だけど、医師にとっては、インフルエンザはインフルエンザだ。

ことほどさように、医師の思考過程と、レセプトの思考過程は異なる。ひょっとすると、ぜんぜん別の世界の言葉だって考えた方がいいのかもしれない。

”郷に入っては郷に従え”
医師の世界の考え方、感じ方をいったん脇において、この1週間は、レセプトの世界からものを見ることにしよう。
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プロフィール

はる

Author:はる
北海道七飯町で小児科クリニックを経営。子どもたちのこころとからだの豊かな成長を願って、日々の診療、子育て相談、講演会活動を展開している。

名前:高柳滋治
仕事:はるこどもクリニック院長
   病児保育所はるっこ所長
趣味:アドラー心理学を学ぶこと
   草花の写真を撮ること
好きな言葉:
”今日は残りの人生の最初の日”

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